コンデ・コマ (前田光世)

その努力の結果は、1898年12月25日、驚くべき事実を以て証明する事となります。
彼は白帯ながら、5~6人の相手に簡単に勝利し、その場で紫帯に昇格したのです。
また彼が黒帯を与えられた時は、講道館初代館長・嘉納治五郎師範の命により十五人抜きを命ぜられ、見事これを達成してのものであったといいます。
前田の素晴らしい格闘技人生は、この時に始まったといって良いかも知れません。
前田の体格については諸説があるものの、少なくとも講道館入門時の記録によれば、164cm・67kgであったようです。
それは当時の日本人の平均的な体格であったかも知れませんが、世界を渡り歩く格闘家としては小柄であったというべきでしょう。
しかし彼はその体格で赫々たる戦績を残しています。(2000勝不敗の伝説さえあるほどです)
彼はその後も柔道で着々と実績を積み、1901年には3段に昇段。
東京大学、早稲田大学、学習院大学等の柔道講師も勤めるほどとなったのです。
~ By Steve Kim
海外での挑戦
1904年、嘉納治五郎師範は柔道を普及させる為に 、天才的な弟子である前田を呼びつけアメリカ合衆国に渡るように命じました。
この時、同時に前田は4段位を認められています。そして、その年の11月前田は横浜港を出帆、年が暮れる直前にカリフォルニア州サンフランシスコに上陸しました。
その当時、ルーズヴェルト大統領が日本の文化に興味を持っていた事の影響で、北米の人々は日本の武道について既に多少の知識がありました。
山下という柔術の講師もいたほどです。
また米軍本部では、護身術の技術を高める為、既に柔術を導入してもいました。
しかし、前田と使節団たちは嘉納が作り上げた「新しい武道」である柔道の有効性を示す為にアメリカ人と闘う必要に迫られたのです。
前田が最初に闘った相手は、ニューヨークの有名な士官学校で、レスリングの稽古もしていたフットボール選手でした。
前田は彼をガードポジションに引き込みました。
それはレスリングでは敗北を意味する床に背中をついた体勢でした。
しかし前田は躊躇なく戦い続け、ついにはアームロックで勝利したのです。
ところが、ルールの解釈違いからアメリカ人は一本負けを認めず、次は前田の仲間であり、当時講道館四天王と呼ばれていた内の一人・富田に挑戦しました。
なぜなら富田の方が前田より知名度があるので、より名誉な事だとそのアメリカ人は思ったのです。
(実際は、富田はその時既に選手というよりも指導者でした)その戦いで、富田は不運にも、相手に足を動かないようにされ屈辱的な敗北を喫しました。
この事実に耐えられなくなった前田は、富田と離れ東海岸に留まりました。
そして新聞に広告を出し、積極的にレスラーなどの挑戦を受けて公開勝負を行う事にしたのです。
アメリカ人に本物の柔道を見てもらい、柔道の実戦における有効性を宣伝しようと考えたのです。
初めての公開勝負は、ブッチャーボーイというプロレスラーで、182cm・113kgの巨漢でしたが、一本目は巴投げ、裏投げといった投げ技からピンフォールし、二本目は腕の関節を極め、完勝しました。
この戦いは、これから始まる事になる世界を股にかけた異種格闘行脚の記念すべき第一戦でした。
また前田は、積極的にボクサーにも挑み続け勝利を収めています。
後にグレイシー 一族が、自分達の技術の有効性を証明する手段として、ボクサーに挑戦するという伝統も前田によって始まったものなのです。
(エリオはジョー ・ルイス、ヒクソンはマイク・タイソンに挑戦した)しかし殆どの場合、ボクサーサイドから対戦を拒否されたのは、「そのような挑戦には決して対応してはならない」と云う、ボクサー達の立場からの伝統が、この前田の頃より徐々に作り上げられてきたからでもあるのです。
グレイシーという名の弟子
我々にはコンデ・コマの弟子であった頃のカーロス・グレイシーについて少なくない議論すべき情報があります。
カーロスはコンデ・コマから2~5年間指導を受けました。
コマはグレイシーに相手の力を使う事などを教えたのです。(効果的なテクニックとして今現在MMA等で使われている)彼の根本をなす戦い方はテイクダウンをする前に、相手に近づく方法としてストッピングと肘を使う事にありました。
アカデミー内で彼は嘉納治五郎によって作り上げられた “ 乱取り ” を更に発展させて行きました。
1925年、カーロスは自らのアカデミーを創立します。
彼は彼の弟子達に彼自身が経験し発展させてきた方法を指導しました。
一方、コマは旅を続けました。
しかし柔術はグレイシーが “ コマのアート ” を発展させるという任務を引き受けて以来、生き続ける事が保証されたのです。